ゆったり行進曲

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雑草と呼ばれた男 西本聖

ひょんなことから主に巨人で活躍した西本聖(たかし)投手の自伝「わが青春の背番号26」が出てきました。たぶん、絵本以外ではじめての自分の本だったと思います。練習が苦にならないという努力の天才の姿に、自分も努力すればなんとかなるかも、と思わせてくれました。そんな西本聖さんのご紹介です。

ドラフト外で巨人に入団

高校野球の名門、松山商業高校のエースとして活躍しましたが、甲子園に行くことはできませんでした。それなのに、ドラフト指名を約束されていたそうです。それなのに蓋を開けてみると、ドラフトでは指名されずトラフト外での入団になりました。ちなみにドラフト一位は鹿児島実業高校で甲子園ベスト4の定岡正二でした。

努力の天才

プロ野球になるのですから天才であることは間違いないのですが、「雑草」なんて呼ばれていました。なぜかというと、誰にも負けない努力ができる「努力の天才」だったからではないでしょうか。自伝の中では「一人で練習できる才能」と書いていました。試合後に飲みに行く選手が多い中、飲みにはいかずに一人で、腹筋300回、背筋300回、片足屈伸を左右150回ずつ、指立て伏せ150回と合計1000回以上の筋トレを毎日欠かさずやっていたそうです。

巨人の三本柱に

いまのプロ野球では先発投手は週に1回しか登板しないこともあり、三本柱という言葉は聞かなくなりました。1980年代は先発投手を4人くらいで回していて、3人の一線級のピッチャーと谷間をなげる二線級のピッチャーを中4日で回していました。
前置きが長くなりました。
1980年代前半は江川卓西本聖定岡正二の3人で三本柱を形成していました。日本一になった1981年シーズンは江川20勝、西本18勝、定岡11勝と3人でチーム73勝のうち49勝をあげました。さらに日本ハムとの日本シリーズで大活躍し、日本シリーズMVPに選ばれ、さらに沢村賞も獲得しました。

中日に移籍し20勝投手に

1980年から1985年まで6年連続2桁勝利を続けていましたが、1986年から1988年までは低迷しており、中日に移籍となりました。その移籍1年目の1989年シーズンに20勝をあげ、見事に復活を果たしました。このシーズンは巨人の斎藤雅樹も20勝をあげており、1シーズンに2人の20勝投手がいたことになります。もちろんこのシーズンの最多勝投手は20勝投手の二人でした。

得意な球種はシュート

ストレートの球速は140キロほどだったと思います。それなのにストレート、カーブ、シュートの3つの持ち球で勝利を重ねました。1983年の日本シリーズでの対戦でバットを短く持って本塁打を打った田淵幸一は「あのシュートを攻略するためにプライドを捨てた」と発言したそうです。シュートピッチャーといえば、カミソリシュートの平松政次西本聖の二人なのではないでしょうか。

年度別成績

年度 登板 勝利 敗戦 セーブ 防御率 投球回数 チーム
1976 1 0 0 0 27.00 1 巨人
1977 47 8 5 4 2.67 118.0 巨人
1978 56 4 3 2 3.76 129.1 巨人
1979 44 8 4 6 2.76 153.0 巨人
1980 36 14 14 2 2.59 222.0 巨人
1981 34 18 12 0 2.58 257.2 巨人
1982 37 15 10 1 2.58 262.0 巨人
1983 32 15 10 0 3.84 239.1 巨人
1984 31 15 11 0 3.12 224.2 巨人
1985 33 10 8 2 4.03 169.2 巨人
1986 22 7 8 0 3.89 104.0 巨人
1987 26 8 8 0 3.67 130.0 巨人
1988 15 4 3 0 3.90 64.2 巨人
1989 30 20 6 0 2.44 246.2 中日
1990 25 11 9 0 3.25 174.1 中日
1991 6 2 1 0 3.18 39.2 中日
1992 16 1 11 0 4.88 75.2 中日
1993 13 5 5 0 4.41 65.1 オリックス
合計 504 165 128 17 2677.0  

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